原点回帰

今日の文章は僕ではないです。

 

僕らのビジネスモデルを人にプレゼンしたり、壁打ちしたりしてもらうと

 

「ああ、最近ありがちのやつね。」

とたまに言われます。

 

確かに学生に少し意識高い要素を入れてシェイクしたようなカフェは結構あります。

 

そんな中僕らが実現したいことはなんなのか。

 

その根幹となっている「語り」に立ち返って

 

しゅうがが忙しい中、そして口下手なりに

 

その可能性について考え、書いてきました。

 

読んであげてください。そして意見をぶつけに来てあげてください。

 

 

ちなみに文章が下手なので、文末表現や単語など38箇所修正を加えています。

(文意はそのままです。)  

途中で飽きそうにはなりますが、お暇を見つけて最後まで読んであげてください。

                                   銀蔵

 

 

 

 

「語り」ってなんだ。

 

 

「あなたを表現して下さい。」

 

 

 

こう聞かれて、あなたはすぐに応じることが出来るだろうか?

 

僕には出来なかった。 

 

まず「表現する」って何なのだろうか?

 

「表現する」方法はいっぱい思いつく。

絵を描いて表現する。

歌を歌って表現する。

小説を書いて表現する。

ダンスを踊って表現する。

写真を撮って表現する。

書を書いて表現する。

デザインを創って表現する。

 

そして、「語る」ことで表現する。

 

さしあたり、上のように考えてみると「語り」は「表現する」ことの1つの手段であるようだ。

 

では「表現する」ということはどういうことだろうか。

 

結論から言えば、僕は「"自分"を持つこと、それを外界に伝えること。」だと思う。

 

 

 

"自分"を持つとは何か。

 

個人的な意見であるが「こだわり」「確固とした価値観」「主張」「芯」と言われるいくつかの単語を混ぜ合わせてできたものを持つことではなかろうかと思う。

 

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さらに問いを投げかけたい。

自分=「こだわり」「確固とした価値観」「主張」「芯」などの集合体だとすると、

それを得るには何をすることが必要となるのか?

 

何らかの方法で「自分のことを知る・理解する。」 これに尽きるのではなかろうか。

 

ここで問題がある。

 

現在大学生である自分自身を含め、

「自分はナニモノなのか」、「自分は将来ナニモノになるのか」という

「自分がわからない」という問題に苛まされている人がかなりの数いるのである。

 

実際のデータを見ていただきたい。

 

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https://gakumado.mynavi.jp/gmd/articles/51754

これは「マイナビ」での調査における大学生が悩んでいることランキングであるが、

上位に「将来への不安」が来ている。特に1位と2位は自分がまだナニモノになるか定まっていないことに対する不安が垣間見れる。

 

自分を表現するためには「自分を知ること」が必要なのに

 

「自分がわからない」と嘆くワカモノたちで溢れているのだ。

 

このギャップを埋められずに苦しんでいる。これが今のワカモノの現状なのである。

 

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僕もその一人だ。僕は浪人しているが、その時から今大学三年生になるまでずっと考え続けている。

 

それでもわからない。わからない。

 

さてどうしようか。そんな中で、僕は一縷の光を見出した。

 

それが今日のテーマ。

「語り」ってなんだ。につながる。

 

 

先ほど「語り」は表現することの1つの手段であるようだと記した。

 

しかし、もう少し「語り」という行為の特徴を考えてみると

 

「表現するという行為の中でトップクラスに簡単で誰でもできる手段である。」という性質を含んでいる。

 

絵で表現するにしても、歌で表現するにしてもある程度の技術が必要である。だが語りはそこまで専門的な技術は必要としないのではないか。

 

「語り」は自分を表現する上で入口になるものなのだ。

 

さらに、「語り」をすることによって、自分の中にある「迷い」「悩み」「葛藤」をも曖昧ながらも、外界に伝えることができる。

 

つまり、「自分はナニモノなのか」、「自分は将来ナニモノになるのか」という

「自分がわからない」という問題そのものを外界に容易に伝えることが出来る。

 

これはほかの「表現する」方法には難しいところである。

 

ここに「語り」という行為の有意性があると思う。

 

一度、外に自分のことを伝えることが出来れば、そこから他者との意見や価値観のぶつけ合いが生まれ、フィードバックを得ることが出来る。

 

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このサイクルを回すことでおのずと自分を表現し、自分を知る・理解することが少しは出来るようになるのではなかろうか。

 

そして、「こだわり」「確固とした価値観」「主張」「芯」といったものから作られる「自分」を得ることができるのだ。

 

そんな可能性を「語り」から感じるのである。

 

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まとめると

「語り」は「表現する」ことの1つの手段である。

 

と共に

 

「語り」は自分を表現する上で最も容易な入口になる。

 

 

 

「語り」は手段であり、出発点である。 これが今回のテーマの答えとしておきますね。

個人の意見なので、他の意見のある方はコメントか直接ぶつけに来てください。

 

いずれまた、将来同じテーマで書くときには更新されているかもしれないのでご了承あれ。

 

 

 

katharsisでは、「語り」によって、

皆さんの中にある「自分」を掴むための入り口となる空間やイベントを創り上げていこうと思います。

まだ、katharsisに足を運んだことのない方も、いつも来てくれている方も、たまに来てくれている方も僕たちと「語り」合ってみませんか?

 

楽しみにお待ちしております。

 

こんな長い文章を読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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